2007年07月18日

コミュニケーションから離れて言葉を勉強したって・・・

 きのうの話しを書いていてさらにいろいろと考えたことがある。


 もうさすがに日本では英会話の狂乱ぶりはかなり冷めたような気がするが、TOEICの狂乱ぶりがそれに取って代わったようで見ていて気持ちが悪い。こういうと世の中でよくなされているペーパーテスト批判と思われるかもしれないが、そんなことをするつもりはない。学生時代の嫌な思い出からかペーパーテストを嫌う人は多いが、ペーパーテストには間違いなく重要な役割がある。テストは学習の診断や動機付けになったり、能力を評価して好き嫌いや縁故ではない公正な人事が行われるためにもぜひとも必要だということは間違いない。


 だが日本で年間延べ150万人の人間が受けるほどTOEICが必要なのかといえば、どうも怪しい。だいたい業務に使う外国語と言うのは定型的なものだ。筆者自身について言えば別に大して英語が出来るわけでもないが、使っているわずかな英語は専門と深く結びついていて、英語学者でも到底わかるものではない。何か専門なり特定の業務に携わっていればどうしてもそういう英語が必要になる。それ以外にそんなやたらに一般的な英語が必要なものだろうか?もちろん基礎としての中高レベルの英語だったら必要と言われても仕方ないかもしれないが、あのテストはそれをはるかに超えている。本当にあんなものがそれほどたくさんの人に必要なのだろうか?



 だいたいあのテストはなんだか怪しい。開発したETSは間違いなく一流の機関だ。2003年にようやくテスト学会が出来た日本に比べ、アメリカでは教育測定についてははるかに厚みのある研究があり、ETSには各分野の専門家と250人もの博士号所持者がいるという。そんな偉そうな権威がついているが、TOEICをつくったのは実は北岡靖男という日本人だ。しかも経団連と通産省が関わったあたりがまた胡散臭い。国際的といいながら受験者の大半は日本人と韓国人だとか。テクニックが重要で高得点をとってもコミュニケーション能力があるかどうか疑わしいなどと言われている。

 テストがよいか悪いか判断するためには二つの基準がある。信頼性と妥当性だ。信頼性は例えばある人が試験を受けて実力が変わらないままもう一度(問題を変えて)試験をしたら同じような結果になるかどうかだ。つまり偶然によって試験の結果が大きく変わるようでは困ると言うことだ。これは統計学だとか計量心理学とかの成果を使って金と手間をかければよいものが出来る。日本のテストはその点も怪しいけど。しかしもう一つの妥当性のほうは難しい。そのテストで本当になんらかの目的とする能力が測れているかどうかだ。だが目的とする能力を評価するのが難しい以上、これが測れているかどうかを判断するのは難しい。もちろんETSには言語学の専門かもいるだろうから、その点も考えられてはいるのだろうが、信頼性のようにETSだから安心とは行きそうにない。


TOEICの正体はベルカーブ
http://eng.alc.co.jp/newsbiz/hinata/2006/07/toeic_2.html

(上)TOEICブームの虚実:社会的責任という見方
http://eng.alc.co.jp/newsbiz/hinata/2006/07/toeic_1.html

(下)TOEICブームの虚実
http://eng.alc.co.jp/newsbiz/hinata/2006/07/toeic_3.html

受験者の2人に1人は日本人!? TOEICは国際社会に通用しない
http://allabout.co.jp/study/toeic/closeup/CU20021212A/index.htm

国際コミュニケーション英語能力テスト(Wikipedia)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E3%82%B3%E3%83%9F%E3%83%A5%E3%83%8B%E3%82%B1%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3%E8%8B%B1%E8%AA%9E%E8%83%BD%E5%8A%9B%E3%83%86%E3%82%B9%E3%83%88


 なんであのテストがここまでもてはやされるのかと考えてみたが、一つにはこんな事情があるのではないか?かつては採用や昇進などの人事は出身大学の偏差値が大きくモノをいっていた。偏差値は統計学の概念であり、科学的な装いがある。教育測定をいくらか知っていると予備校の出す偏差値などはずいぶん怪しいものだとわかるし、そんなことを知らなくても大学入学時点の高校の学習内容の評価を先々まで使うことがまともでないことはすぐにわかる。もしかしたらあれを使っていた人たちは大学入学時点の偏差値と入社した後の能力に高い相関があると信じていたのかもしれない。それもなんだかあまり信じられる話ではないけど。あるいは何か薄々はいんちきだとわかっているものでも、科学的な装いがありみんなを説得することが出来てしかも数字で出てくるというのはこの上なく便利だったのかもしれない。それでかくも広範囲に長く使われた理由もわかる。しかしさすがにそれも賞味期限切れで使い物にならなくなってきた。そこで今度こそまともに評価すればよいのだが、やはりそれは疲れるしトラブルも起こりかねない。そこに新たに科学的な装いがあり、大学入試と違って後からでも取り返しがつくという意味で前よりさらに公平で、しかも数字まで出してくれる便利なツールが現れた。これは飛びつかざるを得ない。べつに社会学が専門と言うわけではないので勝手な憶測だがこんなところではないか?


 そんな試験でも勉強すれば意味があると思う人もいるだろうが、前からの記事で述べているようにその人が必要なコミュニケーションに合わない外国語学習はよけいにコミュニケーションから遠ざける可能性がある。外国語を話すことは楽しいことだし意義のあることだということはよく知っている。だがそれはあんなテストよりはるかに豊かなものだ。はるかに広大な状況から離れて、コミュニケーションからも離れて、言葉だけ習おうとしてうまく行くとは到底思えない。頭を使おうとしない人の言いなりになって頭を使わなければ、せっかくのすばらしいものが近くにあっても失ってしまう。そうはいってもあのテストに関わらなくてはいけない人は少なくないと思う。それでも自分に合わないと思ったならやらないほうがいいし、どうしても必要ならゲームと割り切って付き合うくらいがちょうどいい。バカなオッサン騙して就職・昇進・昇給ゲットォーといってるだけなら問題はないだろう。だがもしあのテストにあるような英語を必要でもないのにまじめに取り組んだら、それこそコミュニケーションの障害になりかねない。



 ついでにいうと台湾でもTOEICはじわじわ入り込んでいるようだ。書店などに参考書があったり、外国語学校の宣伝に使われていたりする。だいたい日本の悪いところはすぐに真似て、例えばNOVAや七田式教室があったりするところだから仕方がないのかもしれないが、何かやな感じだ。日本もあまり変なものは輸出しないで欲しい。


追伸:なんでTOEICに妥当性がないのかと考えた。例えば貿易実務で果物の輸入をする際のレターを書くとか電話の受け答えをする能力があるかどうかのチェックならその能力を測ることは難しくないだろう。そうではなく果物の輸入も車の輸出も旅行の手配も何もかも一緒くたにした一般的ビジネス場面を考えてその能力を測ろうとしたってピンボケのテストしか作れそうにない。
posted by とある研究者 at 23:43| 台北 晴れ| Comment(0) | TrackBack(0) | 外国語 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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